第2場 第1景 坂道ラレンタンド

時間じかんとは、絶対的ぜったいてきなものか。 いや、人類じんるいは知しっている。その速はやさは、観測者かんそくしゃによって変化へんかすることを。 楽たのしい時間じかんは瞬またたく間まに過すぎ、退屈たいくつな時間じかんは引ひき伸のばされる。 音楽おんがくもまた同おなじ。楽譜がくふという名なの設計図せっけいずに書かかれた時間じかんが、歌うたい手ての心こころという名なのフィルターを通とおるとき、その流ながれは、緩ゆるやかに歪ゆがむ。 これは、その『時間じかんの歪ゆがみ』を巡めぐる、ごく個人的こじんてきで、非常ひじょうに腹はらの減へる話はなしなのである。

坂道ラレンタンド

「ご隠居(いんきょ)!詩乃(しの)ちゃん!いやあ、先日はありがとうございました!おかげさまで、歌の稽古(けいこ)も腹(はら)を据(す)えて取(と)り組(く)めてます!これはその時(とき)のお礼(れい)の『知恵(ちえ)の樹(き)の実(み)』で!」

「おやおや、律儀(りちぎ)なことじゃ。これは立派(りっぱ)な林檎(りんご)だ。して、この『知恵(ちえ)の樹(き)の実(み)』とはまた大層(たいそう)な。」

「へへっ。ご隠居(いんきょ)のおかげで、『一音符(いちおんぷ)に一(いち)シラブル』だけが規格(きかく)じゃない、『詩人(しじん)の叫(さけ)び』を乗(の)っけた『ぎゅうぎゅうの実(み)』もまた、立派(りっぱ)な『信頼(しんらい)の証(あかし)』だって分(わ)かりましたからね!」

「そうかい、そうかい。知恵(ちえ)は噛(か)めば噛(か)むほど味(あじ)が出(で)るからのぅ。」

「美味(おい)しそうな林檎(りんご)なのですぅ……」

「おお!詩乃(しの)ちゃん。わかるかい?さすが見る目(め)があるねぇ!実(じつ)はこの林檎(りんご)は――」

「そっち!そっちの箱(はこ)は何(なん)なのです!?まだ林檎(りんご)があるのです!?」

「ああ…詩乃(しの)ちゃん。そ(う)っちは売(う)りもんの林檎(りんご)だよ。これから売(う)り込(こ)みに行(い)こうと思(おも)って一番(いちばん)いいもんを選(えら)んできたんだ!」

​「売(う)れると良(よ)いのです!(自分(じぶん)が食(た)べられないものに用(よう)はないのです!)」

詩乃(しのは頂(いただいた『知恵(ちえの樹(きの実(み』に手(て)を伸(の)ばす。

「早速(さっそく)食(た)べるのです!いただきまあ〜ん!」

「これこれ。丸齧(まるかじ)りとは。せっかく旦那(だんな)が持(も)ってきてくれたんだ、みんなで食(た)べようじゃないか。さあ、詩乃(しの)、林檎(りんご)を切(き)り分(わ)けてもらっておいで。」

「なのです!(台所(だいどころ)で味見(あじみ)するのです!)」

詩乃(しの)は林檎(りんご)をひとつ、否(いな)、考(かんが)え直(なお)してふたつ掴(つか)むと、台所(だいどころ)へ向(む)かった。何度(なんど)もこちらの様子(ようす)を確認(かくにん)しているのが気(き)になるが、ご隠居(いんきょ)は笑顔(えがお)で見送(みおく)り、旦那(だんな)に向(む)き合(あ)う。

「しかし、いやはや、この林檎(りんご)、この艶(つや)、この張(は)りは大(たい)したもんじゃな。」

「いやぁ、そうなんですがね、ご隠居(いんきょ)、この果物(くだもの)を仕入(しい)れる時(とき)が大変(たいへん)でしてね。」

「どうしたんじゃ?何(なに)かあったのかの?」

「それがですね、ここの農家(のうか)が車(くるま)の通(とお)れない山奥(やまおく)にあるんで、毎年(まいとし)この時期(じき)には自転車(じてんしゃ)で仕入(しい)れに行(い)ってるんでさぁ。味(あじ)は絶品(ぜっぴん)、逸品(いっぴん)、一級品(いっきゅうひん)で、もう他(ほか)では手(て)に入(はい)らないんですがね。」

「年(ねん)に一度(いちど)の特別(とくべつ)な実(み)を、自転車(じてんしゃ)で獣道(けものみち)とは、大層(たいそう)なご苦労(くろう)じゃったなぁ。」

「最初(さいしょ)こそ『急(いそ)がなきゃ』と小気味(こきみ)よくペダルを踏(ふ)み出(だ)したんですが、獣道(けものみち)に入(はい)って荷(に)が重(おも)く、足(あし)が疲(つか)れてくると、どうにも。後(うし)ろから引(ひ)っ張(ぱ)られるような。ついでは気合(きあい)が緩(ゆる)むような感(かん)じでね。」

「山奥(やまおく)なんじゃろ?坂道(さかみち)なら尚更(なおさら)じゃな。」

「人気(にんき)の農家(のうか)なんで、品切(しなぎ)れになっちゃいけねぇって、焦(あせ)るわりには気持(きも)ちは萎(しぼ)れる。身体(からだ)も動(うご)かなきゃ遅(おそ)くなる。疲(つか)れて足(あし)が止(と)まる寸前(すんぜん)で、ふと風(かぜ)の音(おと)がリズムを運(はこ)んでくれた気(き)がしたんでさぁ。あぁ、リズムに乗(の)れば、まだ動(うご)ける。それで思(おも)ったんで。この気持(きも)ちを詩(し)にしてやりてぇなぁと。で、初(はじ)めて詩(し)を書(か)いたんですがね、今度(こんど)は歌(うた)にしてやりてぇなぁと。ただ、しっくり来(く)る音楽表現(おんがくひょうげん)が見(み)つからなくて……何(なに)か良(よ)い方法(ほうほう)はないもんですかね?」

「なるほどの。良(よ)い感性(かんせい)じゃ。その徐々(じょじょ)に動(うご)けなくなる感(かん)じは、まさに『時間(じかん)を引(ひ)き延(の)ばす』音楽(おんがく)の表現(ひょうげん)そのものじゃ。テンポ変化(へんか)の記号(きごう)をおさらいしてみるのはどうじゃろか。」

「テンポ変化(へんか)!」

「たとえば、お前(まえ)さんの言(い)う『疲労(ひろう)でだんだん足(あし)が進(すす)まない』状態(じょうたい)なら、ritardando(リタルダンド)かrallentando(ラレンタンド)を使(つか)ってみてはどうじゃ。」

「ritardando(リタルダンド)に、rallentando(ラレンタンド)?そういや、それ以外(いがい)にもfermata(フェルマータ)だとかritenuto(リテヌート)だとかも、歌(うた)の稽古(けいこ)で聞(き)きましたな。」

旦那(だんな)が懐(ふところ)から使(つか)い込(こ)んだ音楽用語(おんがくようご)の辞書(じしょ)を取(と)り出(だ)すのを見(み)て、ご隠居(いんきょ)は目(め)を輝(かがや)かせた。

「おやおや、旦那(だんな)!律儀(りちぎ)なことじゃ!そこまで真面目(まじめ)に音楽(おんがく)と向(む)き合(あ)うとは、感心(かんしん)じゃな!その努力(どりょく)の林檎(りんご)は、さぞかし美味(うま)いじゃろう!」

「へへっ、ありがとうございます。……ご隠居(いんきょ)!ritardando(リタルダンド)とrallentando(ラレンタンド)って、両方(りょうほう)とも『だんだん遅(おそ)く』って書(か)いてあるじゃありませんか!違(ちが)いは何(なん)なんですか!?」

「うむ。ほぼ同義(どうぎ)として扱(あつか)う者(もの)も増(ふ)えておるが、わしは『心(こころ)の働(はたら)き』に違(ちが)いがあると解釈(かいしゃく)しておるよ。」

「心こころ……」

「まずritardando(リタルダンド) (rit.) じゃ。これは、『時間(じかん)を引(ひ)き延(の)ばす、客観的(きゃっかんてき)な指示(しじ)』と思(おも)えば良(よ)いじゃろ。歌(うた)の終(お)わりや、次(つぎ)に大切(たいせつ)なメロディが来(く)るときに、『ここでピタッと時間(じかん)をコントロールするぞ!』という『意図的(いとてき)な操作(そうさ)』なんじゃ。」

「ふむふむ。」

「一方(いっぽう)、rallentando(ラレンタンド) (rall.) は、『テンポが緩(ゆる)んでいく、内的(ないてき)な感情(かんじょう)の弛緩(しかん)』に重(おも)きが置(お)かれる。疲労(ひろう)や、感極(かんきわ)まって力(ちから)が抜(ぬ)けていくような、『自然(しぜん)と緩(ゆる)んでしまう』心(こころ)の動(うご)きを表現(ひょうげん)するために、テンポを徐々(じょじょ)に遅(おそ)くすることが多(おお)いんじゃ」

「なるほど!疲労(ひろう)で心(こころ)が萎(しぼ)えてゆき、遅(おそ)くなったのはrallentando(ラレンタンド)だったんですな!」

「まさしく、その通(とお)りじゃ」

「え~、つまり、歌(うた)い手(て)が『時間(じかん)を管理(かんり)してる』ってのがritardando(リタルダンド)で、心(こころ)や感情(かんじょう)が『緩(ゆる)む』その結果(けっか)、時間(じかん)に影響(えいきょう)を及(およ)ぼしているのがrallentando(ラレンタンド)ってわけで。」

「うむ。」

「要(よう)するに──ritardando(リタルダンド)は高級(こうきゅう)林檎(りんご)を売(う)るときの呼(よ)び声(ごえ)で、遠(とお)くまでよく聞(き)こえるようにあえてゆっくりしゃべるようなもんですな!『こちらの林檎(りんご)。絶品(ぜっぴん)、逸品(いっぴん)、一級品(いっきゅうひん)!この季節(きせつ)・だ・け・の、特別品(とくべつひん)!』ってな感(かん)じですかね。」

「ほう!さすが現役(げんえき)の八百屋(やおや)じゃのぅ!」

「rallentando(ラレンタンド)は……」

「まぁまぁ、待(ま)ちなされ。こうじゃろ?『この…林檎(りんご)……上手(うま)いのぅ……少(すこ)し多(おお)めに買(か)っておこうかのぅ……』感極(かんきわ)まってしゃべるのが遅(おそ)くなるんじゃろ?わしも昔(むかし)は劇伴(げきばん)を仕事(しごと)にしていたこともあるからの!」

旦那(だんな)の目(め)の奥(おく)が光(ひか)る。

「へぃ!毎度(まいど)あり!丁度(ちょうど)こちらに在庫(ざいこ)がありますんで、おいくつでも!いやぁ、そんなに気(き)に入(い)って購入(こうにゅう)までしていただけるとは思(おも)ってませんでしたよ!」

ご隠居(いんきょ)は目(め)を見開(みひら)いた。

「これは一本(いっぽん)取(と)られたわぃ!心(こころ)の緩(ゆる)みを客(きゃく)の財布(さいふ)の紐(ひも)の緩(ゆる)みに利用(りよう)したか!まったく、ritardando(リタルダンド)はテンポの操作(そうさ)だが、お前(まえ)さんのrallentando(ラレンタンド)は、客(きゃく)の心(こころ)を操作(そうさ)しとるわ!」

Attacca(アタッカ)

湖口浩朗(こぐちひろあき)

Seegmund Music Labo 代表 / 洗足学園音楽大学 非常勤講師

音楽理論家・教育家。作曲を専門とし、洗足学園音楽大学作曲コースを首席で卒業。在学中、鈴木純明、古曽志洋子の各氏に師事。現在、母校の非常勤講師として後進の指導にあたる。
サイト外で個人レッスン受付中。詳しくはプロフィールページで。

湖口浩朗(こぐちひろあき)をフォローする