時間とは、絶対的なものか。 いや、人類は知っている。その速さは、観測者によって変化することを。 楽しい時間は瞬く間に過ぎ、退屈な時間は引き伸ばされる。 音楽もまた同じ。楽譜という名の設計図に書かれた時間が、歌い手の心という名のフィルターを通るとき、その流れは、緩やかに歪む。 これは、その『時間の歪み』を巡る、ごく個人的で、非常に腹の減る話なのである。
坂道ラレンタンド
「ご隠居!詩乃ちゃん!いやあ、先日はありがとうございました!おかげさまで、歌の稽古も腹を据えて取り組めてます!これはその時のお礼の『知恵の樹の実』で!」
「おやおや、律儀なことじゃ。これは立派な林檎だ。して、この『知恵の樹の実』とはまた大層な。」
「へへっ。ご隠居のおかげで、『一音符に一シラブル』だけが規格じゃない、『詩人の叫び』を乗っけた『ぎゅうぎゅうの実』もまた、立派な『信頼の証』だって分かりましたからね!」
「そうかい、そうかい。知恵は噛めば噛むほど味が出るからのぅ。」
「美味しそうな林檎なのですぅ……」
「おお!詩乃ちゃん。わかるかい?さすが見る目があるねぇ!実はこの林檎は――」
「そっち!そっちの箱は何なのです!?まだ林檎があるのです!?」
「ああ…詩乃ちゃん。そっちは売りもんの林檎だよ。これから売り込みに行こうと思って一番いいもんを選んできたんだ!」
「売れると良いのです!(自分が食べられないものに用はないのです!)」
詩乃は頂いた『知恵の樹の実』に手を伸ばす。
「早速食べるのです!いただきまあ〜ん!」
「これこれ。丸齧りとは。せっかく旦那が持ってきてくれたんだ、みんなで食べようじゃないか。さあ、詩乃、林檎を切り分けてもらっておいで。」
「なのです!(台所で味見するのです!)」
詩乃は林檎をひとつ、否、考え直してふたつ掴むと、台所へ向かった。何度もこちらの様子を確認しているのが気になるが、ご隠居は笑顔で見送り、旦那に向き合う。
「しかし、いやはや、この林檎、この艶、この張りは大したもんじゃな。」
「いやぁ、そうなんですがね、ご隠居、この果物を仕入れる時が大変でしてね。」
「どうしたんじゃ?何かあったのかの?」
「それがですね、ここの農家が車の通れない山奥にあるんで、毎年この時期には自転車で仕入れに行ってるんでさぁ。味は絶品、逸品、一級品で、もう他では手に入らないんですがね。」
「年に一度の特別な実を、自転車で獣道とは、大層なご苦労じゃったなぁ。」
「最初こそ『急がなきゃ』と小気味よくペダルを踏み出したんですが、獣道に入って荷が重く、足が疲れてくると、どうにも。後ろから引っ張られるような。ついでは気合が緩むような感じでね。」
「山奥なんじゃろ?坂道なら尚更じゃな。」
「人気の農家なんで、品切れになっちゃいけねぇって、焦るわりには気持ちは萎れる。身体も動かなきゃ遅くなる。疲れて足が止まる寸前で、ふと風の音がリズムを運んでくれた気がしたんでさぁ。あぁ、リズムに乗れば、まだ動ける。それで思ったんで。この気持ちを詩にしてやりてぇなぁと。で、初めて詩を書いたんですがね、今度は歌にしてやりてぇなぁと。ただ、しっくり来る音楽表現が見つからなくて……何か良い方法はないもんですかね?」
「なるほどの。良い感性じゃ。その徐々に動けなくなる感じは、まさに『時間を引き延ばす』音楽の表現そのものじゃ。テンポ変化の記号をおさらいしてみるのはどうじゃろか。」
「テンポ変化!」
「たとえば、お前さんの言う『疲労でだんだん足が進まない』状態なら、ritardandoかrallentandoを使ってみてはどうじゃ。」
「ritardandoに、rallentando?そういや、それ以外にもfermataだとかritenutoだとかも、歌の稽古で聞きましたな。」
旦那が懐から使い込んだ音楽用語の辞書を取り出すのを見て、ご隠居は目を輝かせた。
「おやおや、旦那!律儀なことじゃ!そこまで真面目に音楽と向き合うとは、感心じゃな!その努力の林檎は、さぞかし美味いじゃろう!」
「へへっ、ありがとうございます。……ご隠居!ritardandoとrallentandoって、両方とも『だんだん遅く』って書いてあるじゃありませんか!違いは何なんですか!?」
「うむ。ほぼ同義として扱う者も増えておるが、わしは『心の働き』に違いがあると解釈しておるよ。」
「心……」
「まずritardando (rit.) じゃ。これは、『時間を引き延ばす、客観的な指示』と思えば良いじゃろ。歌の終わりや、次に大切なメロディが来るときに、『ここでピタッと時間をコントロールするぞ!』という『意図的な操作』なんじゃ。」
「ふむふむ。」
「一方、rallentando (rall.) は、『テンポが緩んでいく、内的な感情の弛緩』に重きが置かれる。疲労や、感極まって力が抜けていくような、『自然と緩んでしまう』心の動きを表現するために、テンポを徐々に遅くすることが多いんじゃ」
「なるほど!疲労で心が萎えてゆき、遅くなったのはrallentandoだったんですな!」
「まさしく、その通りじゃ」
「え~、つまり、歌い手が『時間を管理してる』ってのがritardandoで、心や感情が『緩む』その結果、時間に影響を及ぼしているのがrallentandoってわけで。」
「うむ。」
「要するに──ritardandoは高級林檎を売るときの呼び声で、遠くまでよく聞こえるようにあえてゆっくりしゃべるようなもんですな!『こちらの林檎。絶品、逸品、一級品!この季節・だ・け・の、特別品!』ってな感じですかね。」
「ほう!さすが現役の八百屋じゃのぅ!」
「rallentandoは……」
「まぁまぁ、待ちなされ。こうじゃろ?『この…林檎……上手いのぅ……少し多めに買っておこうかのぅ……』感極まってしゃべるのが遅くなるんじゃろ?わしも昔は劇伴を仕事にしていたこともあるからの!」
旦那の目の奥が光る。
「へぃ!毎度あり!丁度こちらに在庫がありますんで、おいくつでも!いやぁ、そんなに気に入って購入までしていただけるとは思ってませんでしたよ!」
ご隠居は目を見開いた。
「これは一本取られたわぃ!心の緩みを客の財布の紐の緩みに利用したか!まったく、ritardandoはテンポの操作だが、お前さんのrallentandoは、客の心を操作しとるわ!」
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