人類の歴史は、規範と表現の間に存在する緊張の歴史である。
すべてを律する厳格な法則を求める理性と、その枠を超え、あふれ出ようとする感情。音楽もまた例外ではない。
調和を保つための古の規律は、一つの音に、一つの言葉しか許さなかった。
ところが、昨今の流行歌ときたらどうだろう!歌詞は「愛だの恋だの!」「夢を追えだの!」オレが若い頃はもっと分別が――あっ(はい、大丈夫です。僕まだやれます。はい。すみません。はい。)
(こほん)
その秩序を乱す規格外のごとき、己の心をぎゅうぎゅうに詰め込んだ歌が巷にあふれているという。
これより語られるのは、その美しき対立の末に生まれた、ある八百屋の旦那による、声高な、少々やかましい訴えなのである。
知恵の樹の実
長屋の縁側、白髪のご隠居がのんびりと煙管を吹かしている。その傍らには、おじいちゃん子で可愛らしい孫娘・詩乃が、おじいちゃんにもらった林檎をしゃりしゃりと齧りながら、ご隠居の袖を握るようにちょこんと座っていた。
そこへ、八百屋の旦那、和平が、顔を真っ赤にして飛び込んできた。
「ご隠居!いやあ、ちっとばかし厄介な『規格外』品に悩まされておりまして、ちょっと知恵を拝借したくて参りました!」
「おやおや、八百屋の旦那かい。相変らず声が大きいのぅ。詩乃がびっくりするじゃろ。ほら、詩乃、旦那にご挨拶じゃ。」
ご隠居はゆっくりと煙管を叩き、詩乃に優しく微笑む。
「ったく、最近のモンは、どうにも『潔さ』ってモンがない!『見かけの大きさ』に対して、『正味の重さ』がまるっきり伴っちゃいねえ!まるでカサ増しだ!」
「おやおや、それはお気の毒に。悪意のある規格外品を掴まされるのは、商売人として一番腹が立つじゃろう。して、それはどんな野菜を掴まされたんじゃ?形が悪いのか、中が『す』でも入っていたのかの?」
「え?ご隠居、何を言ってるんですか。野菜ではござんせんよ!そりゃあ、あのスカスカキャベツの件は腹立たしいですが、今はそれとは別の話です!」
「なんじゃ紛らわしいのう。なら、いったいどうしたんじゃ?」
旦那は、持っていた派手な表紙の冊子を、ご隠居の前にバン!と広げる。
「実はこれ、最近歌のけいこを初めましてね、その歌本なんですがね、問題はここなんです!見てください、この音符!一つの玉に『シラブル』が三つも四つもぎゅうぎゅうに詰め込まれてるんですよ!」
ご隠居は歌本に手を伸ばし、詩乃は林檎に手を伸ばした。
「一つの音に、四つも文字を乗せるなんて、どう考えてもおかしいでしょう!ご隠居、これですよ、これは!見た目は立派な林檎なのに、割ってみたら中身がほとんど種で、食べる果肉が雀の涙ってのと同じですよ!こんな『不良品の実』を掴まされたら、お客さんは二度と来ませんよ!」
ご隠居は旦那に目を移す。詩乃は次の林檎に目を移す。
「『一音符に一シラブル!』これが音符の規格ってもんでしょうが!こんな水増しみたいな楽譜で、どうやって『新鮮な歌声』を出せって言うんだ!まるで傷んだ大根を、葉っぱで隠して売ってるようなセコい手口だ!これじゃあ、鮮度ゼロですよ、ご隠居!」
林檎を口いっぱいに頬張っていた詩乃は、旦那の大きな声と「実」という言葉に目を輝かせて、ご隠居を見上げる。
「え?え?おじいちゃん、シラブルってなんです?リンゴの新しい種類です?そのぎゅうぎゅうの種がいっぱい入った実、おいしいのです?」
ご隠居は詩乃の頭を優しく撫でながら、ふふふと笑った。
「おやおや、詩乃はお利口さんじゃな。シラブルというのは“音節”のことじゃよ。 たとえば『た・べ・る』なら三シラブルになる。 そして、詩乃が食べているこの林檎を“音符という実”だとしよう。その中に入るシラブルは“種”。 つまり── 音符ひとつ=実ひとつ、シラブルひとつ=種ひとつ。 これがわしが若い頃からの、昔からの掟なんじゃ。」
「じゃあ、じゃあ、音符の実には、種が一個しか入っちゃいけないのです!食べられるところが少なくなるのはダメなのです!」
「そうそう!なのに最近の歌本じゃ、三つ四つとぎゅうぎゅうに詰め込んでやがる!」
詩乃は林檎の芯を悲しそうに持ちながら純粋に尋ねる。
「おじいちゃん、どうして実に種は一個だけって決まりなのです?二つ三つ入ってたらダメなのです?種も食べれば良いのです!」
ご隠居は、良い問いかけだと言わんばかりに目を細めた。
「詩乃は本当に良いところに気づいた。 もともと西洋音楽は、教会で歌うグレゴリオ聖歌から始まっておってな。言葉と音をきっちりそろえることが大事だったんじゃ。 さらに時代が進んで、多声音楽──つまり何人もで声を重ねる音楽が盛になると、ますますルールが要った。 もし一つの音符に三つも四つもシラブルを入れたら、誰がどこで声を合わせるのか、わしのような年寄りには分からなくなる。 だから『一実一種』は“合唱やアンサンブルで混乱しないための知恵”だったんじゃよ。」
「なるほど!大勢のお客さんが同時に同じ果物を買うようなもんですな!」
「大混乱なのです!」
「規格を『一実一種』でピシッと揃えときゃ、誰が誰に売っても『この品の鮮度は間違いない』って責任が明確になる。これなら、量り売りで揉める心配もなく、客も迷わねぇ!」
「スムーズに食べられるのです!」
「え~、つまり……昔のコーラスでシラブルをそろえることで、大勢が同時に混乱しないようにしたってわけで。要するに──責任の所在と取引の効率を最優先したってわけですな!ご隠居、これぞ昔ながらの信頼の商売ってやつですな!」
「だから、だから、みんなで歌うときには、種は一つって決まりにしてたのです!」
「その通りじゃ。つまり『一実一種』は、音楽を主役にした時代の掟だったんじゃよ。」
「でも、でも、今の歌って歌う人はひとりのことが多いのです? ならちょっとぐらい種がぎゅうぎゅうでも、誰かとずれる心配はないのです?」
ご隠居は深く頷く。
「まさしくその通りじゃ。詩乃は賢いのう。ポップスやシンガーソングライターの歌は、歌い手ひとりが主役になることが多い。 シンガーソングライターが弾き語りで歌うような場面では、歌詞に合わせてテンポを揺らすこともよくあるじゃろう? だから多少ぎゅうぎゅうにシラブルを詰め込んでも、歌い手が自分でコントロールできる。 これは“詩を主役にする発想”があって初めて許される自由なんじゃよ。」
「へぇ〜!昔の掟は“みんなでそろえるため”。 今の歌は“一人の表現”だからこそ、ぎゅうぎゅうの実もアリってわけだ!ご隠居は物知りで!」
「じゃあ、じゃあ、シラブルをいっぱい詰め込むのは、詩の勢いをそのまま楽譜にしたものなのです!」
「そういうことじゃ。作曲家は農家、歌い手はベテラン八百屋。
『この実には種がぎっしりだが、お前なら上ずにさばける』と信じて渡しておるんじゃ。」
「こりゃまさに目からウロコで!」
詩乃は首をかしげる。
「……えっ?えっ!?魚屋さんになっちゃうのです!?八百屋さんはどうするのです!?林檎はどこで買えばよいのです!?」
「ははは、詩乃や、それは言葉のあやじゃ。わしの大事な孫は、面白いことを言うのう……まあ旦那は魚屋より八百屋のままが似合っとるがな。」
「へへっ、一本取られましたねぇ!」
旦那は得意顔に続ける。
「いやぁ、この歳になっても、新しい知恵を学ぶのは実に面白いもんで!」
ご隠居はやれやれと、小さく息を吐いた。
「うむ、しかし旦那、そのわざとらしい演技はまるで大根役者じゃな。八百屋の旦那なんだから、もう少し大根に心入れてくれんか。」
旦那は顔を赤らめながら、「へへっ、一本取られましたねぇ!」と続けた。
ご隠居は頷いて、「もちろん合唱やオーケストラに渡すなら、掟通り『一実一種』で書くのが筋じゃ。 だが歌ものに関しては、ぎゅうぎゅうに詰まった実も立派な知恵の樹の実。間違いでも手抜きでもなく──詩人の叫びであり、歌い手への信頼の証なんじゃよ。」
「いやぁ、ご隠居に詩乃ちゃん、ありがとさん!返品モノだと思った実が、立派な宝物に見えてきやした!」
「じゃあ、じゃあ、今度来るときは“気持ちぎゅうぎゅう”に詰まった実を持ってくるのです!」
